休暇中の建築好きがインポッシブル・アーキテクチャー展に行ってきた話
インポッシブル・アーキテクチャー展
高揚した。
ふだんRevitかNavisworksかInfraworksを使いながら益体もないことを無駄に大きな声で話しているのですが、3月いっぱいのお休みの後半戦で行ってきました。
タイムラインで「これいきたい」と言ってくださった方のRTを見ていて略式の呼名が悲惨な展示だな~と思っていた。行ったら笑いごとではなかった。美術展がそこそこ好きなのもあり展示の順番や工夫に目を凝らすのを楽しみにしているのですが、この展示の全体設計をした方はまぎれもない天才だと思います。天才の所業に感動するのは大好きです、汲みきれた自信はないとはいえ。
キャプションのパンチの重さや順序の巧妙さ、汐留に来てさっそうと撤収していったグラスハウスの展示から流れを感じる関係性が蜘蛛の糸のごとく張り巡らされた有機建築のそれだとかはTwitterでまとめがあると思う。うつくしい構造と意匠を備える、「デザイン」と言われるものたちの話、そのデザインの後ろを通底する徹底的な意思。
さて、そもそもインポッシブルアーキテクチャーとはどのような趣向なのか。
実現しなかった建築物たちの構想展示──というそのあまりにも重いテーマからか、Twitterの建築情報を愛する人々からはインポ展しょんぼりな略式名称でよばれていたのを知ってました。「たたない」とか言ったらかわいそうでしょ!何度も言うけど全体を設計した人の天賦の才がいい加減ひどいと思う。天才はこわい。
ちなみに、インポッシブルについても前段で語られていました。
ここでの「インポッシブル」という言葉は、単に建築構想がラディカルで無理難題であるがゆえの「不可能」を意味しません。言うまでもなく、不可能に眼を向ければ、同時に可能性の境界を問うことにも繋がります。
2019.2.2 - 3.24 インポッシブル・アーキテクチャー - 埼玉県立近代美術館|The Museum of Modern Art, Saitama
まずこの部分で、この展示が「建築"士"じゃなくて建築"家"の人たちってアーティストだから、建てられないものでも別にいいんだろうね」「コンペって、構造のこともなにも考えないで絵を描くみたいにイメージで競っていくんでしょ?」「だからできないものを採用したんでしょ?」みたいな認識をはっきりと受けてたってくれるものであることが感じられると思います。
2Fに上がってチケットを見せてすぐ、「forward」としてこの文言を見て少し心が震えました。私はこういう受けて立つタイプの人がそもそもとても好きです。
そして、最初の展示。
ウラジーミル・タトリンの第三インターナショナル記念塔です。
建築史に詳しい人にとってはおさらいする必要のない項目なんだと思いますが、
あいにく私はあまり詳しくないのもあって事前に少し調べていました。
ロシアの芸術家。
彫刻で「伝統的な絵画に対し疑問を呈する立体的な絵画」を実現しようとしていたらしいです。ちなみにウィキリンクスではこういうリンクの発生する人でした。
この通称「タトリンの塔」とも呼びならわされる構想の、アートとしての要素を端的にまとめてくださった記事もみつけました。
上記を踏まえて展示にあたったのですが、
第三ターミナル構想の実物をみて驚きました。あの時期流行っていた螺旋の大きな構造体。鉄骨とガラスで構成される、優美なものを無骨に作る質実さ。
印象は調べた通りの感覚でした。
でも全然違う角度から驚いた。
あれ?これブリューゲルのバベルの塔に似てるな、というのが第一の感想でした。
(クリックするとバベルの塔の絵が展開します)
ブリューゲルは決して多くの作品を残したアーティストではない、と以前聞いたことがあります。そのなかで、このバベルの塔の絵は三種類あるのだとか。
私の思い出したのは上記のリンクのものです。
大きならせん構造、内包される多くの施設、いで立ち。
ウラジーミル・タトリンは軍属経験を経たのちロシアで絵画・彫刻・建築を勉強された方で、教鞭を取られていたこともある構成主義の教育者でもあったそうです。
またお母さまが詩人、本人もラテン文学に造詣が深く、絵画に向かい合う際は古典をよくよく咀嚼した上で進取の気鋭をという作風の方であったということを踏まえてみるからかもしれませんが、先ほどの「絵画を解釈して立体とする」思想を聞いていたこともあり、一目でバベルの塔を結び付けて理解してしまいました。
バベルの塔は、創世記のなかで語られる「インポッシブル・アーキテクチャー」の寓話として有名だと思います。
曰く、天を衝くように巨大な塔。
しかしそんなもの作ろうとする人間の思い上がりに神さまがおこになり、世界の言語を分断してもう建設ができないようにしてしまったのでした、という戒めのお話がフォーカスされやすいかもしれません。
転じて、実現不可能な計画を比喩的に「バベルの塔」とも呼ぶ、と。
ここで思い出されるのが、先ほどのforwardの文言。
『可能性の境界を探ること』は、たぶん天にも届く塔を建設しようとした際と同じように、触れ得ざるものに挑戦することでもあるのでしょう。
なにを神と置くかで対峙するものの視座は変わってくると思いますが、たとえば「慣例」が神なのかもしれません。あるいは「予算」、あるいは「生産性」。時には挑戦そのものを不遜と窘められながら、人間は神の取り分と、多くのことを衡量してきたのだと思います。
「兼ね合い」や「取り合い」あるいは「おさまり」「たてつけ」で語られる衡量の物語は、たしかに日々建築において目にする物語でもある。そうか、と感動するのはここです。
「何もない空間に引いた線を実現不可能な空想の計画などにせず、膨大な量の衡量をした人間がいるのだ」という、この展示全体を貫通する主張。
この展示は「挑戦し衡量した結果インポッシブルであったこと」の建築史を見せてくれました。
この建築家の来歴で、都市計画中に対峙した神は何であったのか?
喫煙室と祈祷室が共存する霊堂を実現するにあたり建築思想で対峙した神は何であったのか?という私の疑問に、キャプションのパンチラインは実に真摯に応えてくれました。
引用の許される場所にキャプションがないので引用はできませんが、多くの著名な人間について一発ずつの重いキャプションが、「この順序だからこそ意味があるのだ」という、まさに施工図のように『この線の意図はこれだ』と示してくれたと思います。
この、神の取り分と人間の利益を衡量しながら進めていくしたたかさ。一本の線の情報量。
建築建設の現場で語られる多くの折衝が伝わってくる、じつに面白い展示でした。
ただ何もないところに線を描いて実現性検討もせず「できなかった」バベルの塔の物語ではないのだ、と、最初の展示でしらしめてくださったデザイナーの方の辣腕と、
分からない人間がいきなり行っても非常にわかりやすく視座を説明してくださったキャプションに重ねて感謝です。
ありがとうございました。